神葬祭とは神職が行う神道式による葬儀の事で、元々日本に仏教が伝わるより遥か昔から神道式の葬儀は行われており、古事記・日本書紀にもその記述がある儀式です。
当社氏子地域では、明治維新の神仏分離令により全ての寺院を廃し統合されました。故に氏子は、冠婚葬祭すべて神式で行い、仏の御位牌堂にあたる祖霊殿に、遷霊した二柱の御霊代(仏の御位牌)の内一柱を五十日祭が過ぎた後お預かりし、神職が三百六十五日欠くことなく手を合わせます。三十年間毎日手を合わせました御霊様は神様になり地域の氏神様としてお祭りいたします。
ご不明点などございましたら、お電話等にてご相談をいただければと思います。
■ 帰幽祭
人が帰幽(死去)すると、まず初めに、亡くなったと言う事を氏神様並びにご先祖様に御報告をするおまつりが行われます。
幽界に帰りましたと言う事を告げる祭りです。
■ 遷霊祭
肉体と魂を分離し、作り備えた霊璽(みたましろ)に幸魂、和魂、奇魂と、良い魂だけお遷しするまつりです。古来うしみつ時と申し、午前0時から午前二時の間に行ったものですが、今では日が落ちれば執り行っております。その時は全ての明かりを消して、みたまを移します。
■ 通夜
夜を通すと言う事で朝まで不寝番をした時期もありましたが今では程々の時間で休みます。又、お悔やみの訪問客を接待します。ひとまず休まれる時は必ずお灯明の火は消し納めて置きます。明朝朝一番早く起きた方が火をともし夜を通したと言う事で省略させて頂いております。
■ 湯柩
通常、湯の中に水を足すと申しますが、湯柩水は、水の中にお湯を足します。そして遺体を正常に清めますが今では形だけになってしまいました。
■ 納柩
家族、親族一同で計り柩に納めます。正規には、北枕、もしくは西枕が正しい位置です。逆さ屏風、守り刀等を胸元に置きましたが、今では刀の替わりに刃物を置きます。
■ 告別式
家と御遺体との最後の別れの式です。
昔はおともらいと申し、供集いして行ける所までついて送ってあげたと言うのが昔の式でした。
■ 陀火式
火葬場に於て亡骸を陀火(火をいれる)に伏し、安鎮を祈ります。
■ 収骨
竹のはし、木の箸でお互いにハサミあい、骨壺に納めます。
■ 帰家祭・三日祭・五日祭・十日祭
遠州地方ではその日のうちに選び繰り上げて、十日祭を執り行います。本来ですと「なつかしの家に帰りました。これからこの霊舎に安らかに鎮まりましてあとに残った者等を守護給え」と祈る祭りです。其の後三日たって三日祭五日たって五日祭、と行うのが正しい祭りですが、合わせて十日祭と称しその日のうちに執り行います。
※上記は一例です。地域によって異なることがあります。
神道式で行われるお葬式のことを「神葬祭」といいます。現在、日本で行われる葬儀の多くは仏式(仏教式)で行われていますが、もともと我が国には仏式ではない固有の信仰に基づく葬儀がありました。
現存する最古の書である『古事記』に
喪屋を作りて、河雁を岐佐理持とし、鷺を掃持とし、翠鳥を御食人とし、雀を碓女とし、雉を哭女とし、如此行ひ定めて、日八日夜八夜を遊びき
と記載されるアメノワカヒコの葬送の様子や、古墳の出土品からも、古代における葬儀をうかがい知ることができます。
しかし大宝二年(七〇二)に行われた持統天皇の大喪(天皇の葬儀)から仏教色が強まり、つづく文武天皇・元明天皇・元正天皇の大喪もこれに倣って行われるようになりました。また中世以降は、仏教の興隆とともに公家や武士にまで仏式の葬儀が広まりました。
さらに江戸時代に入って徳川幕府がキリスト教の禁教とともに寺請制度を実施し、一般庶民をそれぞれの寺院に檀家として所属させました。そのため僧侶が独占的に葬儀を行うようになり、仏式による葬儀が一般にも定着したのです。
こうした中、江戸時代の半ばごろから我が国古来の葬儀のあり方を見直す動きが起こり、明治時代になって、神道式による葬儀を行うことが一般に認められるようになりました。
神葬祭とは、始めに述べたように神道式で行う葬儀の名称で、日本固有の葬儀を土台に整えられた葬儀式です。厳かで儀式もわかりやすく、しかも質素なことから、今日では神葬祭が増える傾向にあります。