創立の年月は詳ではありませんが、平安時代から時を繋いでいます。
元来「天王宮」 「天皇宮」 「大歳神社」の三社に別れてご鎮座になっていたが、後に合祀され、更に当神社氏子四町の氏神を合祀し現在に至ります。そして、その総称として天王宮大歳神社と申し上げております。
●御祭神
素戔嗚尊(すさのおのみこと)、 櫛稲田媛命(くしいなだひめのみこと)、大己貴尊(おおなむちのみこと)、事代主命(ことしろぬしのみこと)、伊邪那岐尊(いざなぎのみこと)、伊邪那美命(いざなみのみこと)、武甕槌命(たけみかづちのみこと)、 経津主命(ふつぬしのみこと)、太田多根子命(おおたたねこのみこと)
●御神徳
金神方災除、諸病疫病除、厄除、開運、家内安全
●御由緒
当社は、景行天皇四十年事代主命が須羽(すわ)の地に、天王社を建立して先祖を祀り、この霊殿を日本武尊東征の年、この地の首長御久和神人がこの処に奉遷したものである。坂上田村麿が東征に出陣の際、武運長久を祈願したとも云はれ、遠州一円の天王社の総社と云はれています。
●御祭神
長慶天皇(ちょうけいてんのう)、亀山天皇(かめやまてんのう)、後宇多天皇(ごうだてんのう)、
後二条天皇(ごにじょうてんのう)、後醍醐天皇(ごだいごてんのう)、後村上天皇(ごむらかみてんのう)。
●御由緒
長慶天皇神韴霊(かみふつみたま)及び南朝五皇統天皇(なんちょうごこうとうてんのう)の神霊をお祀り申し上げると伝えられています。
●御祭神
大歳神(おおとしのかみ)。
●御神徳
五穀豊穣
●御由緒
当社は、延喜式内社であり、約千三百年前、醍醐天皇の編寡された「延喜式神名帳」に遠江国長上郡小一座大歳神社とある。
●御祭神
蒼稲霊命(うがのみたまのみこと)、春埜命(はるなのみこと)、伊雑皇命(いざわすめみこと)、伊佐波留命(いざわどめのみこと)、大山祇命(おおやまづみのみこと)、御久和大神(おくわおおかみ)。
●御由緒
本社午頭天王を須羽より奉遷したのが御久和神人であると古事記に記述あり。その神縁により末社に奉斎せり。又、蒼稲霊命をはじめ合祀諸神を奉斎し、一生に一度の願いをお聞き下さるとのいい伝えがあります。
●御祭神
大歳神社氏子崇敬者の祖霊
●御由緒
当神社氏子区域では、明治維新の神仏分離令により全ての寺院を廃した。
故に氏子中には、神道家が大半を占めている。その為、氏子の祖先或は、当神社縁りの崇敬者の祖霊を奉斎し、お祀り申し上げています。
当神社の例大祭は別名「小麦祭」と申し、遠州一円の金神方災除、諸病疫病除のお祭です。
当神社主祭神素戔鳴尊は又の名を牛頭天王と申し上げ疫病厄病除を始めわけても金神方災除の神として信仰されて居ります。
神代の昔、牛頭天王は四天大王、八大将軍を引き連れ、南蛮国に住む邪悪の根源、金神を征伐すべく出兵しました。長旅と過労、食糧不足で将兵は次々と倒れ、戦いは苦戦となりました。この時、土地の人蘇民将来が兵糧として小麦を奉納してくれました。これに依って、天王軍は勢力をとり戻し討伐に成功し、金神も降伏して以後牛頭天王様は「蘇民将来の名のある家は疫病、厄病をはじめ諸災難より守護する」と約束したと云われます。
この故事に倣い、氏子崇敬者は例大祭迄に小麦を奉納し、御神符を受けて門口にはり諸厄除を祈ります。
関ケ原の戦後、敗者西軍の武将真田幸村の一子に大助がいました。大坂夏の陣にて戦死したとありますが、社伝によれば当社々家石津家に入り余世を送ったとされ、それ以後、石津家の家紋は真田家の裏紋(左巻雁)に改められ今日に至っています。
その一族が時代の新兵器としていた痕火(煙)火薬(地雷火)が当神社の花火の起源だと云われています。
お天王様が荒神だから、その威勢を付ける為、爆竹をはざすという目的で密かにその製法を受継ぎ伝えました。昭和初期迄は、氏子の家の長男のみを集め、養子に行く可能性のある次男、三男を除いてこの花火を自ら作り、その秘法を外部に漏らさなかったと云われます。
尚、明治二年明治天皇東京遷都の折、浜松大米屋旅館の前で当時遠州報国隊の先覚者の指導の下、打揚げ花火のお迎えを催し、木杯金一封を下賜され、遠州十大名物の筆頭に格付けられた天王の花火は、戦時中でも一度もとり止める事なく受継がれ八月の例大祭には数千発の花火で夜空を色彩ります。
又、平成二年より梨子花火(手筒花火)も復活し、例大祭、正月元旦に境内で奉納されます。